しましまの夢

ダンスフロアに一貫の寿司

理解しなくても愛せるじゃないですか

最近「わかって欲しい」「理解」みたいなワードがすごい入ってきて、忘れかけてたものを思い出して、なんか久しぶりの友人との再会みたいな嬉しさがありました。

 

理解について、理解しなくても愛せるじゃないですかが私の結論なんです。

そもそも自他がある以上わかろうとしたら絶対わからないになっちゃうんですよね。もちろん自分と似た性質があったり、結構な時間をかければ理解も出来るけど、それって一部でしかなくて、全部でも全員でもない。

じゃあ人間は理解し合う事のできない寂しい生き物なのか?と言ったらそうではないと思ってて、理解できないことが一緒に居る理由なのだと思うのです。わからないから、一緒に食べる食事や一緒に見るテレビや音楽、景色が尊い。同じものを見て同じ感想になるとは限らなくても、そんなふうに思うんだ、とかそうなんだ、って言う、それを繰り返していくのは、すごく「愛」っぽいんじゃないかなって。

しましまの夢、意識がキャパオーバーをする話

嬉しいことや、めちゃめちゃ頭にくる事とか、たくさんあって、とても豊かで尊いんだけど、結局キャパオーバーして体調がよくなくて。自分の一つの情報という刺激に対して感度の高さを痛感したんです。別に痛覚的ではないけど、一回休み、みたいになっちゃう勿体なさみたいな、あるんですよね。

冬は顕在意識がおとなしくなっちゃうというか、潜在意識が膨張してしまう感じがあります。意思や思考として認識出来る意識じゃなくて、脳が情報処理している感覚。起きているのに夢を見ているみたいになってしまう。必要な反応なんですけどコントロールが出来ないので、ちょっとうるさいなって思う時もあるし、ちょっと疲れる。だから、没頭したり集中することは私にとって救いだったりします。ちょっと、静かになれるからね。